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昭和33年当時、札幌の三大割烹のひとつに算えられた割烹「三筋」の店主 中澤豊次郎が月見軒の創設者であります。
はじめた場所は、当時のススキノ南3条西3丁目に広い敷地で店を構えていた割烹「三筋」の一角で、都通りに面した場所に店をおきました。
中澤豊次郎は、割烹料理店を経営するかたわら、もっと大衆的な食べ物に挑戦したいと考え、ラーメン作りに割烹料理で磨いたその腕と技をラーメンに注ぎ込み「月見軒の味」を完成させました。
その味へのこだわりは、割烹「三筋」の大きな地下倉庫で連日続き、いつもその大きな地下倉庫は、材料や仕込みの下準備でいっぱいになり味作りに鍛錬しました。
また味噌ラーメンは、当時あっさりタイプが主流のなか、少しこってりとした味付けで深いコクが味わえる一杯に。
醤油ラーメンは、醤油ベースの中にしっかりとダシのコクが味わえる本格派の一杯に。
塩ラーメンは、透明のスープにさっぱりした感じがする割に奥行きが味わえる一杯に作り出し、完成後は、それぞれの味を正確なレシピに作成し、同じ味を作り続けたのでした。
出店当時から月見軒の繁盛ぶりは、忙しい時には一日500食。
札幌祭りの期間中には、観光バスが並ぶくらいの忙しさで、値段は、ほかの店が一杯100円前後であったが、月見軒では一杯150円でした。
それでもお客様の足は、途絶える事は、なかったと二代目は語る。 |
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中澤豊次郎の両親は、日光で老舗旅館を経営していたが、家族で函館旅行をした機会に、すっかり函館を気に入り、日光の旅館を廃業し、函館へ移住する事となりました。
移住してから両親は引退する事となり、兄が函館に旅館を開業しました。
その頃の豊次郎は、函館でハイカラな喫茶店を経営しながらハレーやライカなどを好む沢山の趣味を持つ人でした。
その後の昭和18年、札幌の土地に割烹と旅館を兼ねた「三筋」を開業させました。
戦争中「三筋」は、軍将校指定の旅館として利用されていた時期もありました。
開業より「三筋」は、豊次郎が亡くなるまで有名店として繁栄しました。 |
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二代目は、初代の影響からか、ハイカラな趣味が多く、ピアノの腕前もたいしたものでした。
また何かと時間を作っては、ヨーロッパ旅行や海外へ行くのが楽しみでもあり、何度も渡航しておりました。
そんな二代目も体調を崩し月見軒を長く休み、今から十余年前に甥であり初代からみると孫の三代目へと、初代からのレシピと共に引き継がれたのであります。
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当時のソビエトやアメリカがロケット開発を本格的に着手しはじめた頃・・・
「いつか月にロケットが飛び、人が月へ行くことが出来る時代がくる」という夢と期待に心ふくらませて月を眺めていた・・・
その時「月・・・見・・・軒」という名を思いつき名付けたのでした。
初代が亡くなって翌年 アポロ8号が有人飛行で月の軌道へ、そしてその翌年には、アポロ11号が月面に着陸したのでした。
月見軒の歴史を語ってくれた二代目の笑顔は、月見軒の名前を思いついた時の初代もこんな笑顔だったのだろうかと感じさせてくれる笑顔でした。
と同時にこの味をまもらないとと感じさせてくれる笑顔でもありました。 |
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